ハリケーン カトリーナの傷跡をめぐるツアー ― 2007年09月06日 09時28分32秒
AW Sunday, September 2, 2007 (1781 Vol. 35 / No.34)
連日の猛暑日も忘れかけ、秋の気配も感じだしているが、それは台風シーズンの到来の季節でもある。アメリカのニューオーリンズ地方 (the New Orleans area) をハリケーン カトリーナ (Hurricane Katrina) が猛威を振るってから2年、私たち夫婦が当地を訪れて3年が早くも経ってしまった。私たちが泊まったホテル、歩いた街々の惨状をTVで見るにつけ、一日も早い回復を願っていた。中心街のフレンチ クオーター (French Quarter) 辺りはほぼ回復したようにも見えるが、郊外の被害の最も大きかった地域は、まだまだ手付かずの様子に、台風シーズンの到来を期に、心が痛む。
ニューオーリンズ一帯を悲惨な湖に変えた災害から2年経った今、当地では、破壊の跡を見て回る「カトリーナ ツアー」に対する需要が、かつての観光名所であった、墓地 (cemeteries)、大規模農園 (plantations)、湿地帯 (swamps) などの観光を越えて、急増しているとのことだ。他人の不幸、災難を見てまわる、なんて心無いことと、一瞬思ったが、いやいや、そうでもない、とも思い返してみたりもした。
阪神淡路地震の後、神戸を訪れた時の被災した地元の友人の言葉を思い出した。「多くの人は、被災地を訪れるのを地元の人の気持ちを慮って遠慮しているが、実は訪れてくれることが地元にとって大きな救い、心の支えになるのだ。外から人が来てくれることでいろいろな面で地元が活気ずく。そして、大きなことは、TVなどの報道では分からない生きた情報が、来てくれた人の目、耳、口を通して、全国の多くの人に伝えられることだ。」
この言葉を思い出し、「カトリーナ ツアー」の前向きな面 (bright side) に期待するのが良いのかなと、思っている。 ツアー客の感想も、ダウンタウン地帯の思いもよらぬ大きな回復を喜ぶ一方、ほかの場所ではほとんど何もされていないことについて心配だ、としている。 これらの生の声が、政治、経済を押す力になって欲しい。
連日の猛暑日も忘れかけ、秋の気配も感じだしているが、それは台風シーズンの到来の季節でもある。アメリカのニューオーリンズ地方 (the New Orleans area) をハリケーン カトリーナ (Hurricane Katrina) が猛威を振るってから2年、私たち夫婦が当地を訪れて3年が早くも経ってしまった。私たちが泊まったホテル、歩いた街々の惨状をTVで見るにつけ、一日も早い回復を願っていた。中心街のフレンチ クオーター (French Quarter) 辺りはほぼ回復したようにも見えるが、郊外の被害の最も大きかった地域は、まだまだ手付かずの様子に、台風シーズンの到来を期に、心が痛む。
ニューオーリンズ一帯を悲惨な湖に変えた災害から2年経った今、当地では、破壊の跡を見て回る「カトリーナ ツアー」に対する需要が、かつての観光名所であった、墓地 (cemeteries)、大規模農園 (plantations)、湿地帯 (swamps) などの観光を越えて、急増しているとのことだ。他人の不幸、災難を見てまわる、なんて心無いことと、一瞬思ったが、いやいや、そうでもない、とも思い返してみたりもした。
阪神淡路地震の後、神戸を訪れた時の被災した地元の友人の言葉を思い出した。「多くの人は、被災地を訪れるのを地元の人の気持ちを慮って遠慮しているが、実は訪れてくれることが地元にとって大きな救い、心の支えになるのだ。外から人が来てくれることでいろいろな面で地元が活気ずく。そして、大きなことは、TVなどの報道では分からない生きた情報が、来てくれた人の目、耳、口を通して、全国の多くの人に伝えられることだ。」
この言葉を思い出し、「カトリーナ ツアー」の前向きな面 (bright side) に期待するのが良いのかなと、思っている。 ツアー客の感想も、ダウンタウン地帯の思いもよらぬ大きな回復を喜ぶ一方、ほかの場所ではほとんど何もされていないことについて心配だ、としている。 これらの生の声が、政治、経済を押す力になって欲しい。
アメリカへの不法入国者のウォール マート ― 2007年09月13日 20時11分56秒
AW Sunday, September 9, 2007 (1782 Vol. 35 / No.35)
アメリカ合衆国のメキシコ国境は、西から東へ、カリフォルニア、アリゾナ、ニュー メキシコ、そして、テキサスと4つの州で接している。 Google Earth でトレースしてみると、総延長 約 2,400 キロ (1,500 マイル)、その内の大半は、ソノラン砂漠 (Sonoran Desert) とリオ グランデ河 (Rio Grande、国境線 2,400キロの内の 約 1,400キロ) で占められている。 Google Earth の空からの映像で見ると、砂漠と言っても細かい砂のなだらかなアップ・ダウンが続くサハラ砂漠のようなものではなく、えんえんと続く干からびた広大な荒地と言った方が、私たち日本人にはイメージし易い。
かつて (今でも禁句にはなっているが存在する?)、 ウェット バック (wet back) と言う言葉があって、それはメキシコからの不法入国者を指した。 リオ グランデ河を泳いで渡って来るので、背中が濡れていてそれと分かったことに由来する。 今では、ソノラン砂漠を越えてのアリゾナへの不法入国の方が多いのだろうか。 国境から南に 100 キロ下がったメキシコ側の最後の大きな街 アルタル (Altar) を、年間約 50万人のメキシコ人が砂漠に向かって通過して行くとのことだ。 この アルタルは 「地獄への入り口」 とも 「不法出国者のウォール マート (Wal-Mart)」 とも呼ばれているとも言う。
アメリカ側には不法入国メキシコ人を低賃金の労働者などとして必要とする実態があり、メキシコ側には貧困から抜け出したい厳しい現実があるのを、私は数年のアメリカ滞在を通して実感した。 世界各国からの正規な移民への対応と並んで、もしかしたら実態としてはそれ以上に、メキシコ不法入国者は、アメリカの経済・政治・社会生活に大きな影響を与える問題になっていると感じる。 静かに、しかし着実に状況は進展している。 このような状況はアメリカの話で、日本には直接的にも、間接的にも関係のないこと? そうでもない風の匂いがするように思う。
アメリカ合衆国のメキシコ国境は、西から東へ、カリフォルニア、アリゾナ、ニュー メキシコ、そして、テキサスと4つの州で接している。 Google Earth でトレースしてみると、総延長 約 2,400 キロ (1,500 マイル)、その内の大半は、ソノラン砂漠 (Sonoran Desert) とリオ グランデ河 (Rio Grande、国境線 2,400キロの内の 約 1,400キロ) で占められている。 Google Earth の空からの映像で見ると、砂漠と言っても細かい砂のなだらかなアップ・ダウンが続くサハラ砂漠のようなものではなく、えんえんと続く干からびた広大な荒地と言った方が、私たち日本人にはイメージし易い。
かつて (今でも禁句にはなっているが存在する?)、 ウェット バック (wet back) と言う言葉があって、それはメキシコからの不法入国者を指した。 リオ グランデ河を泳いで渡って来るので、背中が濡れていてそれと分かったことに由来する。 今では、ソノラン砂漠を越えてのアリゾナへの不法入国の方が多いのだろうか。 国境から南に 100 キロ下がったメキシコ側の最後の大きな街 アルタル (Altar) を、年間約 50万人のメキシコ人が砂漠に向かって通過して行くとのことだ。 この アルタルは 「地獄への入り口」 とも 「不法出国者のウォール マート (Wal-Mart)」 とも呼ばれているとも言う。
アメリカ側には不法入国メキシコ人を低賃金の労働者などとして必要とする実態があり、メキシコ側には貧困から抜け出したい厳しい現実があるのを、私は数年のアメリカ滞在を通して実感した。 世界各国からの正規な移民への対応と並んで、もしかしたら実態としてはそれ以上に、メキシコ不法入国者は、アメリカの経済・政治・社会生活に大きな影響を与える問題になっていると感じる。 静かに、しかし着実に状況は進展している。 このような状況はアメリカの話で、日本には直接的にも、間接的にも関係のないこと? そうでもない風の匂いがするように思う。
中学で「ダンス」、「武道」必修へ ― 2007年09月20日 21時13分18秒
AW Sunday, September 16, 2007 (1783 Vol. 35 / No.36)
「健康を育むための方法を考案するために設置された」中央教育審議会の専門部会は、年度内に改定される予定の学習指導要領で、武道とダンスを中学保健体育の必修とする提案を行った。 この提案が受け入れられると、剣道、相撲、ヒップポップダンスなどがカリキュラムの一部になり、早ければ2011年の春から実施される。
教育に関する改革が必要との考えは、多くの人々で共有されているが、今回の学習指導要領の改訂案は、多くの人々から、かなりの驚きをもってむかえられた。 現行の中学校保健体育の規定では、体つくり運動、器械運動、陸上競技、水泳、球技、そして、体育に関する講義の6つが必修、ダンスと武道の2つが選択である。 この2つも必修になろうとしている。 特に、「武道」の必修化が議論を呼んでいる。
戦後、連合国軍総司令部 (GHQ) は、剣道、柔道などを学校教育の場から禁止したが、その後、相撲、柔道、剣道などが「格技」として復活し、89年には「伝統的文化を尊重する態度を育成」として「格技」が「武道」となった。 次第に、私たち一般庶民が頭に描く「スポーツ」から、「スポーツという形を借りた「道」」(伊吹文科相)になろうとしているようだ。 昨年の教育基本法の改定、いわゆる、「愛国心条項」が根底にあり、一部では、軍国主義復活の道とも見られている中、教育の現場、指導者がどのように、取り組み、生徒を導いていくか、大きな課題を残している。
「健康を育むための方法を考案するために設置された」中央教育審議会の専門部会は、年度内に改定される予定の学習指導要領で、武道とダンスを中学保健体育の必修とする提案を行った。 この提案が受け入れられると、剣道、相撲、ヒップポップダンスなどがカリキュラムの一部になり、早ければ2011年の春から実施される。
教育に関する改革が必要との考えは、多くの人々で共有されているが、今回の学習指導要領の改訂案は、多くの人々から、かなりの驚きをもってむかえられた。 現行の中学校保健体育の規定では、体つくり運動、器械運動、陸上競技、水泳、球技、そして、体育に関する講義の6つが必修、ダンスと武道の2つが選択である。 この2つも必修になろうとしている。 特に、「武道」の必修化が議論を呼んでいる。
戦後、連合国軍総司令部 (GHQ) は、剣道、柔道などを学校教育の場から禁止したが、その後、相撲、柔道、剣道などが「格技」として復活し、89年には「伝統的文化を尊重する態度を育成」として「格技」が「武道」となった。 次第に、私たち一般庶民が頭に描く「スポーツ」から、「スポーツという形を借りた「道」」(伊吹文科相)になろうとしているようだ。 昨年の教育基本法の改定、いわゆる、「愛国心条項」が根底にあり、一部では、軍国主義復活の道とも見られている中、教育の現場、指導者がどのように、取り組み、生徒を導いていくか、大きな課題を残している。
パバロッティさん:最後のスタンディング・オベイション ― 2007年09月27日 16時35分08秒
AW Sunday, September 23, 2007 (1784 Vol. 35 / No.37)
世界的なテナー ルチアーノ・パバロッティ さん (Luciano Pavarotti) の葬儀に約5万の人々が集まり、別れを惜しんだ。 彼の最も有名なアリア プチーニ (Puccini) の 「トゥーランドット」 (Turandot) の 「誰も寝てはならぬ」 (Nessun Dorma) がスピーカーから流れる中、大聖堂からひつぎが運び出されると、観衆から大きな拍手と「ブラボー」の歓声が上がる情景を、メディアが報じていた。
この光景は、半ば、信じられないものであったが、その一方では、極く自然に見える状況でもあった。 たとえその人がどんな世界的あるいは国民的ヒーローだあっても、葬儀の場で、誰がリードするでもなく、自然に全体から拍手がわき起こったり、ましてや「ブラボー」の歓声が上がるなど、日本ではあり得ないのではなかろうか。 しかし、映像などで見ると、パバロッティさんの葬儀では、死を悲しんでいると言うより、賛辞と敬意をもって送り出しているような自然さが感じられた。 まさに、最後のスタンディング・オベイション。
オペラなどのクラシック音楽を、エリート階級の芸術から、一般の人の楽しみにした彼への親近感。 音楽を命を守り、戦争に反対する道具ともした彼への敬意。 死を神に召される喜びとする宗教観・文化的価値観。 などなど、ようようのファクターから、あのようなシーンになったのであろうが、(実際にその場にいたのではないから、軽々しく言えないことだが、) 私たち日本人は、いろいろな意味でグローバルな感性・価値観・行動から、すこし離れたところにいると感じる。 これは、いいことでもあり、考えねばならないことでもあろう。 世界から理解され、尊敬される、私たちなりの文化観・価値観が創れれば、素晴らしいことだと思う。
世界的なテナー ルチアーノ・パバロッティ さん (Luciano Pavarotti) の葬儀に約5万の人々が集まり、別れを惜しんだ。 彼の最も有名なアリア プチーニ (Puccini) の 「トゥーランドット」 (Turandot) の 「誰も寝てはならぬ」 (Nessun Dorma) がスピーカーから流れる中、大聖堂からひつぎが運び出されると、観衆から大きな拍手と「ブラボー」の歓声が上がる情景を、メディアが報じていた。
この光景は、半ば、信じられないものであったが、その一方では、極く自然に見える状況でもあった。 たとえその人がどんな世界的あるいは国民的ヒーローだあっても、葬儀の場で、誰がリードするでもなく、自然に全体から拍手がわき起こったり、ましてや「ブラボー」の歓声が上がるなど、日本ではあり得ないのではなかろうか。 しかし、映像などで見ると、パバロッティさんの葬儀では、死を悲しんでいると言うより、賛辞と敬意をもって送り出しているような自然さが感じられた。 まさに、最後のスタンディング・オベイション。
オペラなどのクラシック音楽を、エリート階級の芸術から、一般の人の楽しみにした彼への親近感。 音楽を命を守り、戦争に反対する道具ともした彼への敬意。 死を神に召される喜びとする宗教観・文化的価値観。 などなど、ようようのファクターから、あのようなシーンになったのであろうが、(実際にその場にいたのではないから、軽々しく言えないことだが、) 私たち日本人は、いろいろな意味でグローバルな感性・価値観・行動から、すこし離れたところにいると感じる。 これは、いいことでもあり、考えねばならないことでもあろう。 世界から理解され、尊敬される、私たちなりの文化観・価値観が創れれば、素晴らしいことだと思う。
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